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zoom RSS 宇治の旅・偉大な政治家・山宣

<<   作成日時 : 2009/12/12 22:56   >>

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山宣
この名前を初めて知ったのは、まだ20代の初めでしょうか。
人々は尊敬の念を持って彼をそう呼びます。

通称山宣
正式には山本宣治


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宇治に来るとまずは宇治川縁にある、小高い山の上に山宣の墓にお参りしています。


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一際高くて大きな墓石は、一目でそれと分かるほど立派なものです。


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花屋敷 山本家の墓と書いてあり、その裏面には次のように書いてある。


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実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ
山宣独り孤塁を守る! 

だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・・


墓に書いてあるこの文章は有名な一説です。


詳しい話はWikipediaから引用したい。


1929年3月3日に大阪・天王寺公会堂で開かれた全国農民組合大会での(宣治の墓碑銘として刻まれている)「実に今や階級的立場を守るものはただ一人だ、山宣独り孤塁を守る! だが僕は淋しくない、背後には多くの大衆が支持しているから・・・・」という有名なくだりは、帝国議会での治安維持法改悪反対の演説草稿の一節であった。


ここで、臨監の警部が中止を命じた。山宣は「議会開会中の代議士の逮捕は勅令なしにはできぬぞ」と叫んだため、彼を取りかこんだ警官たちはなにひとつ手だしすることができなかった。


翌三月五日、山宣は、念入りに準備した治安維持法に反対する演説草稿を持って国会議事堂にはいった。
しかし、その日の衆議院本会議は、民政党・労農大衆党の反対討論と、新党倶楽部・政友会の賛成討論が終わったところで、政友会提出の討論打ち切りの動議が可決され、山宣の発言は封じられてしまった。

二月八日の衆議院予算委員会で、山宣は三・一五事件の拷問や長期拘留の不当・不法を鋭く追及した。これに恐れをなした与党政友会は、山宣の登壇を、なんとしても阻止したかったのである。
議会はただちに採決にはいり、治安維持法改正法案は、賛成二四九、反対一七〇で可決した。

改正(悪)に真っ向から反対した宣治は、議会での質問で、3・15事件の被疑者に対する警察の拷問を暴露するなど厳しく糾弾、1929(昭和4)年3月5日には治安維持法事後承諾反対の演説のため登院したが、発言が封じられた。



その夜の午後9時半のことである。宣治の止宿していた東京・神田の旅館「光栄(こうえい)館」に、芝浦の労働組合と偽って面会を求めてきた右翼・七生義団の黒田保久二(くろだほくじ。37歳。戦後の1950年代に精神病院で死亡)が宣治に議員辞職勧告書を突きつけ、隙を狙っていたその鋭い刃先が宣治の頸動脈を突いた。宣治は血まみれで格闘したがついに息絶えた。



こうして山本宣治は暗黒の時代に抗し生命をかけて闘い、享年40歳(満39歳)で人生を終えることとなった。


宇治に住む母親「多年」の元に訃報が届いた。


「宣治の死は悲しいことですが、全然予期していなかったことではありません。
遺骨は荼毘に附して送り返して下さい。

唯一つのお願いは、宣治の遺骸を旧労農党の党旗でつつんで棺に収めて下さい。
宣治は生前常にその赤旗のことを口にしていましたから、そうして下されば、何にもまして本懐でしょう。」

山宣は議会解散請願運動以来一貫して旧労農党の精神を守りぬいて死んだ、多年からの伝言を聞いて東京の同志たちは泣いた。



そしてこの墓地の葬られることになったのだが、警察は墓地建立を許可しなかった。
山宣の墓碑は当初寝かされたまま、裏面の碑文をセメントで塗りつぶし、表面を宣治と両親の名を出さず、「山本家之墓」と訂正することで、やっと建立が許可された。

その後、何回かセメントがはがされては塗りつぶされたが、45年12月、戦後最初の追悼墓前祭で、かつての農民組合の同志がノミをとって墓石のセメントをはがし、墓碑は白日のもとによみがえった



山宣の経歴です

1911(明治44)年に帰国した宣治は、24才で同志社普通学校に編入学、その後、三高(現京都大学)、東大へ進み、生物学者の道を歩み、東大卒業後、同志社大学講師に就任、「人生生物学」の講義を受け持つ。



1922(大正11)年、アメリカの女性産児調節運動家サンガーの訪日に啓発された宣治は、労働者農民の中で性教育啓蒙化(正しい性知識)の普及と産児制限(避妊)の必要性を痛感して、サンガーの著書を『山峨女史家族制限法批判』のタイトルで小冊子に翻訳し発行、23年には大著『性教育』を刊行、日本最初の性教育学者となる。



当時政府は、戦争に備えるための一つの政策として、「産めよ、増やせよ」をスローガンに、天皇の子を産むことが国民の義務とされていたため、産児制限は、当然国策に反し、産児制限を主張する宣治は、権力から反体制分子として、また、右翼からも命を狙われるようになった。



「いくら子どもを節約したところで、貧乏そのものがなくなるわけではない。一番大切なのは、安心して子どもを産める世の中にすること。働く人々の生活がもっと楽になるように社会のしくみを変えることが必要である」。



これが宣治の性教育学者としての原点であったが、産児制限運動を通じて、労働運動に関わるようになった宣治は、1924(大正13)年に京都労働学校長に就任、労働者教育そのものに携わるようになる。同時に宣治は全国各地で講演を行なうが、講演は、立ち会い巡査の「弁士中止」命令の連発で、しばしば降壇させられた。

「大衆の中に根ざして、大衆とともに生き抜くこと」を己の信条とした宣治は、同志社大学を辞して、1928(昭和3)年、若干38歳にして第1回(男子)普通選挙(日本最初の普選による衆議院議員選挙)に京都府第2区より無産政党代表として立候補、京大教授河上肇らの応援を得て予想に反して当選することになる。


宣治が衆議院議員となった1928年は、普通選挙と引き換えに治安維持法を武器に反体制運動を徹底的に弾圧するといった政治状況であった。


死刑を含む刑罰の強化は、あまりにも弾圧的として、帝国議会で「この法案は民衆を弾圧し、支配者層のための戦争への道を開くことになる」と、宣治は命をかけて反対、また、少なくない議員と一定の世論がこれに批判的であったため、改正案は審議未了となった。

しかしその後勅令で治安維持法は成立して、小林多喜二を始め多くの人が獄門等で亡くなっています。

そして国は戦争への道を進むのであった。

墓前祭=毎年3月5日

毎年全国から多くの人が集まって、山宣の墓前祭が行われます。
偉大な政治家であったことがこれでよく分かります。



山宣が生まれた場所
今は「花やしき」として料理旅館を営業しています。

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今は山宣の戦った時代ではないけれど、今の政治家も山宣の爪の垢でも煎じて欲しいものだと、つくづく思います。
生物学者として政治家として、本当に尊敬できるのは山宣くらいではないかなあ



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コメント(2件)

内 容 ニックネーム/日時
ひばりのこの歌をはじめて聴いたとき、衝撃的な感動を覚えたことが今蘇えりました。
たしか広島で歌ったのではと記憶してますが、定かではありません・・何せ歳なもんで、記憶がアッチ飛びコッチ飛びします。
旅人さんでなければ唄えない貴重な歌と思います・・有難うございました。
あおいレイ
2009/12/13 10:15
あいおレイさんおはようさんです。

この歌は広島の平和音楽祭で歌ったものだと思います。
それまでひばりの歌のジャンルは演歌と思っていましたが、この歌を知ったときから彼女への見方が変わりました。

平和への思いがこれほど強く持っていたことにまず驚きました。
彼女が歌ったこの「一本の鉛筆」を、平和へのメッセージとして、これからも歌い続けたいと思っています。
お聴きいただきありがとうございました。
風の旅人
2009/12/13 10:24

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