心の旅・遠くへ行きたい2

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zoom RSS 歌の旅・ガード下の靴磨き

<<   作成日時 : 2009/08/15 00:09   >>

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今日8月15日は終戦記念日
昨日までは米軍の空襲に逃げまどっていたが、この日正午から玉音放送が流されて、ようやく戦争が終わった。


画像



もうチョッと早く戦争が終わっていたら、多くの犠牲者を出さなくて済んだはず。
実は14日も激しく爆撃しています。
大阪の京橋駅では500人が死んでおり、秋田では夜の10時空襲があり、5000人が死んでいる。
この戦争で日本人の死者は300万人を越えている。
1銭五輪の赤紙でかり出されて、異国の地で死んでいった人たち。
未だに遺骨さえ戻ってこない遺族もいます。
戦後処理は未だに終わっていない。



戦後海外から続々復員されてきたが、その後の苦労は大変なものだったと想像できる。
戦災孤児も町に溢れていた。

そんな社会状況の中で、宮城まりこが歌ったのが「ガード下の靴磨き」
子どもでも食べていくためには何でもしなければならない。
米兵がジープで通ると「ギブ ミー チェコレート」と群がったと言う。

農家に米と交換して貰うため、着物と換えて貰った。
まだ換えられるものがあるうちは良い。

交換するものがないと、もう何でも食べるしかない。
今では考えられないものを食べてきた。
よく生きながらえたものだと、今更ながら感心する。

今の世の中では美食とか言っているけど、そんなことが言えるのはあの当時の苦労を知らない人だから。
当時は誰もが腹が減っていた。
食べ物に好きとか嫌いなんて言ってられない。
目の前にあるものをただ食べるだけ。

しばらくすると米の配給が始まった。
しかしそれとて満足な量じゃないので、毎日芋やすいとんばかり

たまに焚いてくれる麦飯も、麦で表面は真っ黒。
最後はお釜にへばりついているご飯粒も、こそげて食べていた。

そんな食糧事情は戦後10年くらい続いただろうか。
でもこの辺りの話を同期生なんかにすると、地域で随分食糧事情が違っている。

小学6年生の時に伊勢に1泊で修学旅行に行った。
その時各自米を1合持参することだった。

米を持って修学旅行?
同じ年に伊勢旅行した大阪の子は持っていっていない。
結局滋賀の田舎は米どころ。
うまい江州米を狙って旅館が持ってこさせたのだろう。
子どもに食べさせるのは、もしかして安い米だったのではと思っている。





ガード下の靴磨き

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コメント(7件)

内 容 ニックネーム/日時
懐かしいですね、宮城まりこ、まだ元気で「ねむの木学園」やってられるようですが、この歌も良く聴きました。

修学旅行は私も、伊勢でしたね、あの頃は小学生はだいたい伊勢でした、
でも確か、お米はもって行かなかったと思います、大阪でしたから。
でも、お寿司屋さんで、巻き寿司を買うのに同じ分量のおコメを持って買いにいったのを覚えています、子供心に変なのと、思いました。
良い歌を有難うございました。
アキのいちご
2009/08/15 14:46
アキのいちごさん毎度〜
大阪の子はやっぱり米を持っていかなかったんだ(笑)
滋賀の子は米の産地、旅行代金は1合分安かったのかなあ(爆)

寿司屋で巻き寿司を買うのに同じ分量の米を持っていく?

これは面白いなあ
こんなん聞いたの初めてや(笑)
いやはや戦後の米事情、こんな話に巡り会えただけでも嬉しいなあ
アキのいちごさんありがとさん。
風の旅人
2009/08/15 15:15
今日、この子のテレビ見ました。
「白旗の少女」というタイトル。
沖縄の少女の話。
泣きながら見てました。

いったい最初に「戦争やろう」と言い出したのは誰???
キウイ
2009/08/15 20:26
キウイさん今晩は
白旗の少女の写真は太田昌秀著「これが沖縄戦だ」に収録されており、ワテもこの本を持っており、ページをめくると3枚目に載っています。
少女はこの時の模様を後に話しています。

壕(ガマ)で日本兵と一緒に隠れていたら、米軍から投降の呼びかけがあり、壕から出れば安全を保証すると米軍は言っているが、これは信用できないので試しに少女に白旗を持たせて先に出させた写真です。
少女が無事だったので、安心して日本兵も出てきたようです。

沖縄戦の写真集を見ると戦争のむごさがわかります。
このようなことが二度と起きないためにも、平和はしっかり守って行かねばなりません。

戦争を仕掛けたのは軍の上層部ですが、その根本は大資本かですよ。
日本は石油がないため、日本の工業発展には石油は必需品です。
そのため東南アジアや中国に石油を求めて侵略していきました。

石油がないと軍艦も飛行機も車も動かないため、結局石油の利権争いですよ。
現在でも石油の利権を狙って、各国が中東でしのぎを削っています。
風の旅人
2009/08/15 23:50
沖縄のこの写真、女の子に白旗を持たせて安全を確認して後ろから兵隊が降伏してくるんですよね。
ドイツが降伏してから5ヶ月以上戦争を続けた日本
天皇の責任も重い
外地の戦争でも飢えて死んだのは兵隊であって将校など軍幹部で餓死した人はいたとしても少ない
もうヘトヘト
2009/08/16 09:46
もうへとへとさん〜いらっしゃい
日本が誤った方向に向かう前は、政治的には翼賛政治が押し進められて、国民はお国のため天皇陛下のためと教えられて、戦場へとかり出されました。

戦争に反対する人たちには国賊だ非国民だとののしられ、特高が監視する中で逮捕されて、小林多喜二を初め良心的な人たちが牢獄で虐殺されました。
戦争を唯一反対した党は日本共産党だけでした。
戦争を推進しようとする連中は、この党をつぶしにかかったのでしょう。
この党だけが命をかけて反対したことに、日本人はもっと知っていなければならないですね。

太平洋戦争が始まって1年後、昭和17年にミッドウェー沖で行われた海戦では、日本海軍壊滅的被害を受けています。
そこで主力航空母艦4隻とその全艦載機を失っています。

しかし大本営発表では真実をねじ曲げて、戦意高揚を計るべくマスコミで情報操作をしています。
この戦争で日本は310万人の犠牲者が出ましたが、ミッドウェー海戦での敗北で戦争を止めていたら、多くの兵士や国民が死なずに済んだでしょう。

軍の中枢はいつも広報で作戦を練るだけ。
前線で死んでいくのは一般の国民でした。
戦争はむごいですね。

風の旅人
2009/08/16 11:07
本当にひどい時代でしたね。
二度とそんな悲惨で、辛い時代が来ないように
私たち大人がしっかりしなくては
いけませんね。
魔女
2009/08/17 13:18

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